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「いがみ合う」とは、他者と対立し、争い、互いを非難し合うような心の状態を意味します。自分の正しさに固執し、相手を否定するような態度を取り続けていれば、そこには敵意や怒りが生まれます。その結果、心は乱れ、やがては孤独や苦しみに満ちた世界が広がっていくことになります。煩悩によって心が曇り、その結果として苦しみが生まれるという教えがありますが、「いがみ合うなら地獄」という一節は、まさにそのような心の状態が生む世界を的確に表しています。
一方で、「おがみ合う」とは、互いを敬い、感謝し合い、相手の存在を尊重する姿勢を意味します。「おがむ」という行為は本来、仏や神に対して手を合わせ、頭を下げるという祈りの形ですが、それを人と人との関係に当てはめることで、相手を大切に扱うという意味が生まれます。たとえ考え方や立場が異なっていても相手を受け入れ、感謝の気持ちで接することができれば、そこには穏やかで安らぎのある関係が築かれます。それはまるで極楽のように、調和と平和に満ちた世界であると言えるでしょう。
この言葉が多くの寺院の掲示板などで見かけられるのは、仏教において「和をもって尊しとなす」や「慈悲の心を持って他者に接する」といった教えが大切にされているからです。現代社会は多様性が増し、価値観の違う人々が共に暮らしています。その中で、他者を否定したり、排除しようとする心が強くなればなるほど、社会には緊張や分断が生まれます。そうした時代背景において、「おがみ合う」ことの大切さを再確認することは、とても意義のあることだと思います。
また、この言葉は、私たちがどのような世界に生きているかということが、実は自分自身の心の持ち方によって決まるのだということも教えてくれています。地獄や極楽は死後の世界ではなく、今この瞬間の心の在り方によって現れるものだという考え方です。怒りや憎しみの感情に支配されていれば、たとえ周囲の環境が整っていても心は満たされず、日々が苦しみに感じられるでしょう。しかし、感謝や思いやりを持って人に接することができれば、どんなに質素な暮らしであっても、心は豊かで温かくなり、その世界は極楽のように感じられるはずです。
このように、「いがみ合うなら地獄 おがみ合うなら極楽」という言葉は、私たちに人との関係性や心の持ち方の大切さを深く問いかけてきます。争いや対立を選ぶのではなく、敬意と感謝を持って他者と接することが、日々をよりよいものにし、自分自身の心をも癒してくれるのです。短くも深いこの言葉には、私たちがより幸せに、より豊かに生きるためのヒントが詰まっているように思います。