- 公開日:
大小山 慶雲寺 由緒
そもそも当寺の由緒は、孤峰山福泉寺と號し、武田氏等の兵火に逢い、ただ小堂と五輪の石碑のみ存していました。当時、寺の東側近くは波打ち際でした。
たまたま開山月桂禅師が一宿し、翌朝、諷経後、緑端に座して伊豆の山岳と駿河湾の風光を眺望していると、堂前に大小2つの雲気が現れ、是れ有縁の霊地なりと深く感じて遂に三宇(本堂・庫裡・書院)を創建しました。この因縁により大小山慶雲寺と改称、時にのことでした。福泉寺より五丈八寸、重量200匁の古銅楊柳観音大士が什宝として伝わりました。
宝永の震災()に遭い堂宇全壊しましたが、再建。天明・安政の震災でも、全壊・類焼に遭いますが、に山門、には本堂・庫裡、に六地蔵堂を建立しました。
第15世祖栢老師は寺内に門下生1,000名を越える私塾を興し、大学、中庸、論語、仏教学を教えます。また、には庚申堂を改築し観音菩薩を合祠。
その後、太平洋戦争により全焼。現在の本堂、庫裡はに建立。当山は永らく『赤門の寺』として広く親しまれてきましたが、これらは仁王像をまつり、朱色で塗られた山門の建立に由来します。
赤門
江戸末期の建立以来、赤門と呼ばれてきた山門を、34年ぶりに再建し落慶式が開かれ、檀家や信徒220人が焼香やくぐり初めを行いました。
完全再現された山門の高さはおそよ5メートルで、修復された仁王像を両わきに祀っています。再建を望む信者らの強い要望などで、3年半かけて完成しました。これを機に十二支の守り本尊「八体仏」を寄進され、同日併せて開眼供養を行いました。
昭和30年代前半まで残っていた同山門が赤塗りのため、慶雲寺は「赤門の寺」として知られていました。戦前は武運長久を祈る兵士が、山門に鎮座していた仁王を度々参拝に訪れたといいます。
寺紋
当山は今川家との関係が深く、寺紋は丸二引きです。この紋は「引両紋」と呼ばれ、もともと幕の文様でしたが、転じて家紋や寺紋となりました。
すなわち軍用は五布で出来ているもので、中を白くしその上下各一布を染めると四角に二引きとなる。これが後、衣服に紋を付けるようになり文様化され、丸に二引きとなった
と「日本紋章学」に記されています。
この本には、次の様にも記されています。
この紋を用いた豪族には、新田、足利の両氏があるが新田氏が滅び、足利氏が大権を握ったため、その家紋である二引両はおのずと権威あるものとなり、その門はいうに及ばず、部下の諸将士にいたるまで競って用いた。将軍家はもちろん吉良、渋河、石橋、斯波、細川、畠山、一色、山名、新田、大舘、仁木、今川、桃井の諸士が、いずれもこれを用いた。
二引両紋は将軍家から武功の士に贈与されたものであるから、後世、勲章のように重んぜられ、これを受けることは当時たいへんな光栄とされたので、足利氏の諸将は、多くこの二引両を複紋として用いたが、後世になると、ついに二引両を僣用して、家紋とするにいたった。
この紋章は将軍家の家紋として権威あるものであったから、これを用いる者も多かったが、徳川時代になると天下が平静になったため、家紋も概して衣服、調度の器具にのみ用いられる様になり、次第に変化して競って優美なものを用いるようになった。
引両のような簡単なものはまったく衰えてしまった。
二引両は足利氏の家紋であったが、将軍家の紋章であったというので、徳川氏も二引両紋を複紋としてさかんに用いた。徳川氏は引両紋を将軍の紋章と認め、名誉ある家紋として扱ったのである。
また「細川記」には細川幽斎が将軍義昭からこれを賜わり、「永禄記」には織田信長も義昭に賜ったと記されています。「尾陽雑記」には、徳川氏が二引両紋を用いたのは足利氏以来将軍家の紋章として用いた慣例によるもの、と記されています。