行事について

慶雲寺で行われる行事などを
詳しくご紹介いたします

花祭り

4月8日は、お釈迦様がお生まれになった日、降誕会です。一般的には「花祭り」といっています。お釈迦様は、今からおよそ2500年前、北インドのルンビニという花園でカビラ国の浄飯王(じょうぼんのう)と摩耶夫人(まやふじん)の間に生まれ、ゴータマ・シッダールタと名付けられました。

その時、周りの花々は一斉に咲きそろい、何ともいえない良い香りをただよわせ、空からは甘露の雨が降り注いで生まれたばかりのお釈迦様の体を洗い清めたといいます。

この故事にちなんで、赤ちゃんのお釈迦様を花御堂にまつり、お花をいっぱいお供えして、 お祝いと感謝の心で甘茶を注ぎます。

お釈迦様はお生まれになってすぐに7歩歩んで右手で天を指し、左手で地を指して「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんがゆいがどくそん)と言われたそうです。人は誰でもこの世にただ、独りしかいないかけがえのない存在であるということですね。

自分自身でしかできない尊い役割や使命をを常に心の中に忘れず限りある命を大切にしていきましょう。


お施餓鬼

「施餓鬼(せがき)」とは字の如く「餓鬼に施す」という意味です。「餓鬼」とは六道(天界、人間界、修羅、畜生、餓鬼、地獄)のうち、餓鬼道に落ちて苦しんでいる亡者の世界のことです。

この亡者(餓鬼)が口にしようとするものは忽ち炎と化し、何ひとつ食べることが出来ず飢えの苦しみには際限がありません。
この世で他人に親切にしてきた人は、亡くなって大練忌(四十九日忌)に天界や人間界に生まれ変わることになっていますが、他人に不親切にしてきた人は、その不親切の度合いで修羅、餓鬼、畜生、地獄のどれかに行くことになっています。

自分の力ではこの苦しみから脱することが出来ない餓鬼に、食べ物や飲み物を施し餓鬼道から救おうというのが「施餓鬼供養」です。
当山では、毎年7月5日に大勢の和尚さまに来て頂き檀信徒と共に施餓鬼供養を行っています。

実は、生き物を殺し食べることで(つまり他の命を奪うことで)自己の命を繋いでいる食べ物への感謝の念を自覚するための供養です。「いただきます」「ごちそうさま」という日常的な言葉の中にも、この教えが生きています。


お彼岸

「暑さ、寒さも彼岸まで」春のお彼岸は、3月21日頃の春分の日を挟んで前後7日間。秋のお彼岸は9月23日の秋分の日を挟んだ前後7日間です。
お彼岸とはどんな日でしょうか?お墓参りをする日に違いありませんが、実は仏道実践の日です。次の6つをとくに実践して行く日です。

すなわち布施(ふせ)、持戒(じかい)、忍辱(にんにく)、精進(しょうじん)、禅定(ぜんじょう)、智慧(ちえ)をいいます。これを六波羅蜜(ろくはらみつ)といいます。布施は見返りを期待せず人に施しをすることで「喜捨(きしゃ)」とも呼ばれます。金品ばかりではなく温かい心を分け与えることも大事です。持戒は戒律を守ることです。社会のルールを守ることと考えてよいでしょう。積極的に善い行いをすることも必要です。

忍辱は苦しみを耐え忍び、他人に腹を立てないことです。容易には乗り越えられない苦難に直面した時には、責任を他に転嫁せず正面から向き合い堪え忍ぶことです。後から大きな喜びが生まれます。精進とは、何事にも一生懸命努力することです。途中で投げ出しては進歩がありません。禅定とは心を落ち着かせて自分を見失わないことです。坐禅をせずとも正座をして身(からだ)と呼吸と心を整えましょう。

智慧とは工夫をして行くことです。知識とちがい真実を見極める力を持つことです。この6つは常に心掛けねばなりませんが、お彼岸の1週間はとくに実践しましょう。そうすると、此岸(しがん)、こちら側の人間くさいどろどろした世界から彼岸、あちら側の理想の世界に行けるでしょう。平素の自分を振り返り、これら6つのうちひとつでも実践して行けば彼岸(理想の世界)は実は「自分の足元にある」ことに気がつきます。


達磨忌

達磨さんと言えば、誰でもすぐ思い浮かべるのは真っ赤な起き上がり小法師の達磨さんですね。達磨さんは実在の人物で、お釈迦さんから数えて28代目の方です。
南インドの香至国の第3王子として、今から1600年程昔にお生まれになりました。国王であるお父上は深く仏教を信じ、釈尊より伝法27代目の般若多羅尊者について仏道を修められました。

ある日、国王は国に伝わる宝玉を尊者に与えてその徳を謝せられました。ちょうどその席に3人の王子がおられたので尊者は長兄の月浄多羅に、「私は只今この宝珠を国王より頂きました。国王のお言葉では、この国で一番の宝物との事ですが⋯」と申しますと第1王子は「その通りです。」と答えました。

第2王子の功徳多羅も同じように答えました。只、第3王子の菩提多羅(後の達磨さん)の答は違っていました。「尊者よ、この宝玉は火や水で傷むでしょう。また人に盗まれることもあるでしょう。」と申されるので尊者が「そうです。」と答えますと、菩提多羅は「尊者よ、水、火にあっても変わらず、また盗もうと思っても盗めない物でなければ本当の宝玉ではありません。」と言いました。

尊者は「では、そのような宝玉は何処にありますか。」と問いますと、菩提多羅は静かに自分の胸に手を当てて「ここにあります。」というので、皆驚き感心いたしました。尊者は父王に願われて菩提多羅を弟子にされました。かくして、尊者を師として40年余り修行されました。達磨さんが中国に渡りますと、梁の国の武帝が達磨さんを丁重に招待いたしました。

この時の達磨さんとの有名な問答が、宗の時代に書かれた「従容録」に書かれています。それによりますと、武帝は「今までに仏教外護のために数多く寺を建て、たくさんの僧侶を養成し、たくさんの経本をつくり援助してきたが、どの程度の功徳がありましょうや。」さも自慢そうに質問しました。すると、達磨さんは間髪を入れず「無功徳」とはねつけました。

つまり功徳などなにもない、と言うそっけないお答です。武帝は大いに誉めてもらえると思っていたが唖然としました。何か功徳があるのか、何か良いことがあるのかと自分の行為に対しての見返りを求めたわけです。これでは、ギブアンドテイク、与えたら与えてくれになってしまいます。「良いことをしたな」と思った瞬間に忘れる事。これが功徳であり仏教では布施と言います。

武帝はさらに、次の質問をします。「しからば仏教でいう最高の境地とは何か。」達磨さんは言下に「廓然無聖(かくねんむしょう)」と答えました『雲ひとつない空のようなからっとした静かな境地』と言う意味ですね。武帝がこの意味をよく理解出来なかったので、達磨さんは、揚子江を渡り北魏の国に入られ洛陽の郊外の崇山に少林寺という小さな庵を建てました。壁に向って坐禅すること実に9年におよびました。ここから面壁九年の言葉が生まれました。

また、赤い衣を着て、ただ一心に坐り続ける達磨さんのお姿を後ろから見ると手足が無くなったように見える所から起き上がり小法師には手足がついていません。この達磨さんを禅宗では初祖としています。達磨さんが壁に向って坐禅をしているある年の冬、雪の降りしきるなかを神光というお坊さんがやってきて入門を願います。神光、40歳の頃だったといいます。

しかし、達磨さんは神光の熱意を試す為なかなか弟子入りを許しません。そこで、神光は左のうでをナタで切り落として決意を示しました。やっと入門が許され一生懸命修行に励みました。この神光が後に名前を「慧可」と改め中国での禅宗の2代目となり107歳で入寂しました。達磨さんが亡くなられたのは西暦532年10月5日、105歳ということになっています。そこで禅宗では10月5日に「達磨忌」といって達磨さんのご遺徳を偲んで法要をお勤めいたします。当山では当日の11時より檀信徒と共に読経御回向しています。


成道会

成道会(じょうどうえ)とは、釈尊(お釈迦様)がお悟りを開かれた日で、いわば仏教の誕生日です。それが12月8日です。釈尊は釈迦族の皇太子でした。幼い王子の頃から物思いにふける陰気な性格だったので、王であるお父上は何とか陽気にしたいと城外へ遊びに出すことにしました。最初は東の門より外出しました。途中で、歯も髪も抜け、やせ衰えた、しわだらけの老人を見ました。

王子は御者に聞きました。「この人は何者ですか。どうしてこのような姿なのか。」御者は「これは老人です。」と答えました。さらに王子は「私もこのようになるのか。」と聞きました。「誰でもこの苦しみを免れることはできません。」と御者は答えました。これを聞き、王子はすっかり気がなえて城に戻ってしまいました。

2度目の外出は南の門からです。途中、路傍で苦しんでいる人を見ました。「人間は誰でも必ず病気になります。」と聞き、すっかり気がなえてしまい、再び外出をとりやめてしまいました。3度目の外出は西の門からです。途中、死者を嘆き悲しみ葬儀をしている人々に出会いました。王子は御者に聞きました。「死者とは何者か。」「わたしも死ななければならないのか。」御者は「その通りです。人はいずれ死ぬべきものであり、あなたもまた避けることができないのです。」と答えました。王子は深く心を打ちひしがれて馬車をひき返しました。

最後の外出は北の門からです。途中、黄色い袈裟をつけ、乞食のための鉢を手に持ち、じっと前方を見て歩く人と出会いました。「この人は何者ですか。」御者は、出家した修行僧であると王子に教えました。王子はすぐに馬車を下りて「出家にはどのような利益があるのか。」と尋ねました。修行者は「正しい教えのよって心の平安を求め、慈悲をもって衆生を救うのが出家の利益です。」と答えました。王子は「人間世界にこれに勝るものはないであろう。」とたいへん喜び、たちまち正気を取り戻されたといいます。お釈迦さんはこの生・老・病・死のことが大人になっても頭からはなれませんでした。この4つを明らめたいとの思いがつのって行くばかりでした。

当時、インドでは男子は一生の間に1度は森にこもって瞑想にふけるという風習が有りました。お釈迦さんもこの風習にしたがい生老病死の起因を明らかにしようと出家して森に入りました。森にはたくさんの仙人や知識人がいました。お釈迦さんは生老病死の起因を仙人・知識人に尋ねても満足する答えが得られません。そこで自分の力で解決しようと考えました。難行苦行をして何度も死にかかりました。お釈迦さんは考えました。難行苦行をしてもなかなか悟りを得ることができない。むしろ気をらくにして静かに瞑想にふけったほうか良いのではないか。

菩提樹の木の下で静かに瞑想にふけっていた早朝、空に輝く明けの明星を見て自分がひかっていると、星とひとつになっている体験をしました。悟りとは自分と天地宇宙がひとつになっている宗教体験です。お釈迦さんはその宗教体験があまりにも深くて人々には理解できないであろうと思い、自分だけのものにしておこうと考えました。ところが、梵天があらわれ、「民衆は苦しんでいる」とのささやく声を聞き、工夫に工夫をして人々にわかるように説いていきました。その教えを後世、弟子たちが書きまとめたものがお経として読み継がれてきました。このお釈迦さんがお悟りを開かれた日が12月8日で成道会です。


針供養

針供養は折針や古い錆びた針などを豆腐や蒟蒻に刺して供養し、針への感謝と裁縫の上達を祈願する行事です。

関東では2月8日、関西では12月8日の事八日(ことようか)と呼ばれる日に行われることが多いです。この日は古くは、ひとつ目の妖怪が現れる日といわれ、これを金属神としていた鍛冶屋達がお祭りをした日であり、針がひとつの穴の金属というところから、針供養の行事が行われるようになったといわれています。

当山では毎年3月5日の午後2時より針供養を行い、グループ邦友の皆さんによる和楽器の演奏会をしていただいています。

この時近くの浜田小学校の5年生全員を招待して共に楽しんでいます。

色さめし 針山並ぶ 針供養

高浜 虚子

涅槃会

涅槃会(ねはんえ)とは、お釈迦様の入滅(亡くなられた)された2月15日の行事です。お寺では涅槃図(ねはんず)といって、お釈迦様が入滅される時の様子を描いた掛け軸をかけて報恩の法要を営みます。

お釈迦様の伝道は45年の永きにわたりました。お釈迦様は80歳になられ自らの入滅を予感されて余生を生まれ故郷のルンビニで過ごそうと、阿難尊者と数名の弟子を伴って、伝道の旅をされます。バーバーという村まできますと鍛冶屋のチェンダがお釈迦様の為に食事を供養されました。

その直後激しい腹痛をおこされますがさらに歩みを進められクシナガラの沙羅の林までたどり着きました。此処にいたってお釈迦様は力尽き、北を枕にし顔を西に向けて身を横たえました。そこで、最後の説法をなさいました「私の教えをよく守り、自分を戒め、5欲を慎み、静寂を求めて努力し定を修して悟りの智慧を得るように。」また「汝自らを灯とし 汝自らをよりどころとせよ、法を灯とし 法をよりどころとせよ。」

そのよりどころとする自分は、我見・我欲の自分でなくよく心がととのえられた自分でなければなりませんと示されました。この心を整える方法としてわが宗門では『坐禅』があります。入滅の時、多くの弟子・王族・老若男女、さらに鳥獣さえ集まって嘆き悲しみました。

お釈様の周りに生えていた8本の太い沙羅の木が、真っ白に枯れてしまったといわれています。